私が生まれ育った飯坂温泉の置き屋というのは、若い人はあまりなじみがないと思うが、住み込みの芸者さんを温泉宿のお座敷に派遣する稼業だ。
花柳界なので、行儀良くしろとしつけられて育った。また、芸者さんと寝食を共にし、三味線や踊りなどの稽古、髪を結って支度する芸者さんたちの姿を見てきた。後に俳優のマネジャーからタレントへ転身し芸能界で生きていくわけだが、幼少期から芸事の世界との接点はあったのだろう。
学校から帰ると、置き屋の支度部屋で母や芸者さんたちが白黒テレビでプロレスを見ていたため、私も自然とプロレスが好きになった。福島市体育館でプロレス興行があると親にチケットを買ってもらって駆け付け、リングサイドで見たプロレスラーたちに憧れた。
しかし、プロレス団体に入門するための募集要項や入門テストの試験項目を見た時に、とても自分には無理だと諦めた。
私が中学生の頃には男子は丸刈りが決まりだった。それが嫌で、当時丸刈りの決まりがなかった福島大付属中を受験したが落ちてしまった。自分にとっては大きな挫折だった。
そこから見返してやろうと中学校では勉強に励み、無事に福島高に合格。だが、「井の中の蛙(かわず)」そのものだった。高校時代は周囲のレベルが高く、授業についていくことは大変だった。入学時は約500人中30番目だったのに、卒業する頃には後から数えた方が早かった。
高校時代に熱中したのは合唱だった。中学3年の時に、コンクールで金賞を受賞するなど合唱で有名だった先生が転勤してきたのをきっかけに、私は合唱部に入部した。高校でも合唱部に入った。当時はオーケストラ部の伴奏でミサ曲を披露するなど、国内でも珍しい取り組みをしていたと思う。
一方で、チケットを握りしめ会場に駆け付け、熱中していたプロレスの方は、テレビ中継で見るだけになっていた。